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2021年05月21日のエンタメ研究所の過去記事

5月21日(金) ※5月23日以降は『いいね』を押さないでください。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
おはようございます。
自分の中を贅沢スイッチを全開にしないと『雪見だいふく』を買えないキングコング西野です。
すでにお聞き及びことと思いますが、『映画 えんとつ町のプペル』が、ロッテルダム国際映画祭に続き、世界最大のアニメーション映画祭『アヌシー国際アニメーション映画祭』にノミネートされました。
応援してくださっている皆様のおかげ以外の何モノでもありません。
本当にありがとうございます。
さて。
今日は自戒を込めて『いばらの道と知って進んだのだから、祈ってる場合じゃない』という話をしたいと思います。
たぶん、いろんな業界で同じようなことがあると思います。
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▼ 商業的なもの
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「商業映画」や「商業演劇」などなど……モノづくりの世界にいると「商業的」という言葉が「金に目が眩んで、クリエイティブを後回しにした」という意味で使われるシーンをよく目にします。
だけど、どうだ?
兵庫県川西市「西野部屋」の西野あきひろ少年の目や耳には、「商業的」と呼ばれがちなエンターテイメントしか届いていませんでした。
映画といったら『ゴジラ』や『ドラえもん』という世界です。
それらの作品は、あきひろ少年の胸を間違いなく踊らせたし、「いつか、僕もエンターテイメントの世界に行きたい」と思わせました。
あきひろ君が小学2年の頃の話です。
40歳になった僕が表現活動をする上でリトマス紙としているのは、【小学2年生の頃の僕】で、「彼の胸が踊る表現になっているか?」が僕にとっては最も重要です。
なので、
「商業的だから」という理由で商業的なエンターテイメントを腐してしまうような作り手にはなるつもりはありません。
表現活動においては「面白いか、面白くないか」で議論されるべきで、
「商業的であるか、商業的でないか」という議論は、前面に持ってくるものではないと考えています。
「俺がやっているのは商業映画じゃないから」「私がやっているのは商業演劇じゃないから」は、内容がスベッた時や、才能を持ち合わせていない人の言い訳(保険)として使われたりすることがあったりするので、どうにもこうにも。
「商業的だからダメ」というわけでも、「商業的じゃないからO K」というわけでも、その反対でもありません。
あくまで、「面白いか、面白くないか」…それに尽きます。
ただ一つ、気をつけておきたいのは、「せっかく面白いものを作ったのなら、なんとしてでも届けなきゃ!」ということです。
業界からは高く評価されても、兵庫県川西市の少年に届いていない作品というのは山ほどあります。
今回、世界最大のアニメーション映画祭『アヌシー国際アニメーション映画祭』にノミネートされて、さっそく、いろんな方からお祝いの言葉を頂戴しました。
スタッフの皆様や、ファンの皆様に感謝しつつ、
「『たずさわって良かった』と思ってもらえたかなぁ」「恩返しになったかなぁ」と思いつつ、
……ノミネートされた直後から気になっていたのは2017年に(日本作品としては実に22年ぶりに)クリスタル賞(最高賞)を受賞した『夜明け告げるルーのうた』(監督:湯浅政明)のこと。
その年の世界一に輝いたこの作品を、一体どれだけの日本人が知っているのでしょうか?
正直なところ、「え? 5年ぐらい前にアヌシーで日本人が最高賞を獲ったの?何、その作品? ルー?」という人がほとんどじゃないでしょうか?
夜明け告げるルーのうた』は映画の公開が終了する頃(スクリーンが減った頃)に、アヌシーでグランプリを獲り、その報せを受けて、全国で上映スクリーンが増えたのですが…………しかし、結果としては「届けきれなかった」ということになると思います。
届かない理由が、「『面白い』の基準が世界と日本で違う」ならば諦めもつきますが、「観てくれさえすれば、日本人にもキチンと刺さるんだけど、日本の市場ルールに乗っかっていないから、観てもらえない」というケースは少なくなくて、これは諦めるわけにはいきません。
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▼ 「食べてくれさえすれば…」という祈り
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「一度でも観てくれさえすれば…」
「一度でも食べてくれさえすれば…」
「一度でも体験してくれさえすれば…」という声ってあるじゃないですか?
たぶん、この文章を読んでいる人の中にも、言ったことがある人はいると思います。
これから新しくサービスを立ち上げる方も、きっと言っちゃうセリフだと思います。
夜明け告げるルーのうた』も、おそらくその類の作品だったと思うんです。
ただ、「聴き馴染みのある音楽しか聴いてもらえないし、食べ馴染みのある料理しか食べてもらえない」というのが現実です。
「味わってくれさえすれば」とどれだけ祈ったところで、その祈りは届きません。
玄人に評価されることはあっても、兵庫県川西市の少年までは届かないんです。
3〜4年ほど前。
Studio4℃の田中社長と廣田監督と僕の3人で、「『映画 えんとつ町のプペル』をどの程度、市場のルールに寄せるか?」という話し合いをしました。
君の名は。』の大ヒットで、『君の名は。』のコピペ(年頃の男女のラブストーリー× RADWIMPS的なアーティストが音楽担当)が量産されていた頃です。
あの頃、日本人が求めているアニメーションの形がある程度固まっていたのですが、僕らは「そこには合わせない」という判断をしました。
『映画 えんとつ町のプペル』には、ラブストーリーもなければ、目が大きくてキラキラしている美男美女キャラも出てきません。
出てくるのは、
前歯が2本の少年と、
美男美女キャラから最もかけ離れた「ゴミ人間」です。
見るからに、「『観てくれさえすれば…』と祈り続けて、最後まで観てもらえない作品」です。
そこで、僕らが決めたのは、「世間には一切忖度せず、引き続き『観てくれさえすれば作品』を作ると同時に、『観てくれさえすれば作品が観てもらえるビジネスモデル』も作ること」でした。
どれだけ祈ったところで、『観てくれさえすれば作品』が届くことはないので、
「映画公開前の台本販売」や、「クラウドファンディングを活用した映画のギフト化」など、『観てくれさえすれば作品』が観てもらえる施策を打ちまくったんです。
今日の結論は、「市場のルールから逸脱したものを作るのであれば、それが届ききるまでのビジネスモデルも一緒に作ることが大切で、祈ることから卒業しようね」という話っす。
今日は自戒を込めて『いばらの道と知って進んだのだから、祈ってる場合じゃない』というお話をさせていただきました。
たぶん、心当たりがある人が多いと思うので(僕もだよ❤️)、お互い、自分のエゴをキチンと届けきるビジネスモデルを構築しましょう。
現場からは以上で〜す。
 
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